2011年8月1日月曜日

燃える太陽

いま私ができることは、文章にして今自分がいる状況を記録しておくことだけのように思われる。しかし、記録なんていうのは過去を振り返る行為であって、それは生産にはほどとおい行為であるように思われる。
こんな4コマがクラブの部室のマンガにあった。



ある社員Aさんは「わが社に歴史を刻んでくれ!」と激励され時代の最先端をいく部署に配属されたが、社員Bさんは「わが社の歴史を刻んでくれ!」と激励され社史編纂係となって狭く薄暗く、少し寒そうな部屋で途方に暮れる。
Aさんがこれまでの人類史のぼう大な進歩という巨大なガンダムのなかに乗りこんで最先端の技術を武器に新たな課題との格闘をする一方で、人類史という海の中でクリオネほどの歴史をもった企業の誰のためのなんのためのものかも不明な社史編纂に取り組むBさん。
どちらも生産は生産だ。
しかし生産されるものの重要性や期待度が違う。
生産に必要なスキルや頭脳の使用範囲が違う。
よって給料も違う。きっと流される汗の色も違うだろう。


最先端の技術・智慧を一点に集約して産み出される製品は誰の目にも神秘を宿した未来の到来に映る。そこには生活を輝かせる可能性が多分に含まれていて、すこぶる魅力的だ。
しかし一方で社史――会社の役員がどう変遷したかとか、いつどの企業と仲良くなったとか、いつごろその企業をちゃっかり吸収したったとか、自社製品が獲得した賞がどれだけ光栄なものか、とかを年代順に記録したものなのだろうか――は誰の目にどんな風に映るのだろうか。
そもそも誰かの目に入るのか?社史をみるととりみだすほどの社史マニアは一体日本に何人いるだろう?社史をひもとかずに会社を去る社員のいかに多いことか?社史編纂にかけた時間と見返りとのバランスは背筋も凍るようなものではないか?
社史編纂と言う仕事は、「いつかこの社史が裁判官に無罪判決を出させるかもしれない」とか、「働き次第で人生の記録を社史のなかに永遠に残すことができるかもしれないという栄光の約束で社員たちのモチベーション向上の小さな後押しを請け負っているのだ」とか、そんな純粋なやりがいを見つけて、それを一切の疑念もなく心の底から信じきることができる社員にだけ務まる仕事、なのだろうか?本になった社史は、薄暗い書庫にうずたかく積まれた書類の一層をなす運命から逃れられないのか?それは有意義な生産活動といえるのか?


ある。たとえ小さな会社の短い歴史をつづる行為にだって生産の余地は、ある。
新しい社史編纂の方法を産み出すことだ。社史にこれまでにない価値を付加することだ。
映画を作ろう。会社を巣だった元・社員の何人かにインタビューをし、社史における金字塔とよべるような出来事にまつわるエピソードを複数の主観的な観点からとらえなおすのだ。そこそこのハードルを乗り越えた話ならば脚色してワールドレコードものの高さのハードルだったことにするんだ。それを乗り越えた先人たちの熱い奇蹟の物語を産み出すのだ。主演は渡辺謙にしよう。体も引き締まってダンディな40代後半を演じてくれよう…。


社史編纂係から脚本家への大転身だ!「昼はリーマン、夜はヒーロー」も目じゃない、「一日中ずっと脚本家ですけど?」だ!あるありふれた一企業の少し落ちぶれた社員から映画脚本家へとジャンプする物語…もはやこれが映画のようだ。社史編纂を社史編纂にとどまらせないアイデアは個人の小さな頭脳から産み出され、それはやがて海を越えて大陸のレッドカーペットを歩かせるだろう。ハリウッドでのリメイクも夢じゃない…。

記録―。
その記録を目にした人間に、なにかしらの有用な変化をもたらしてこそそれは有意義な生産となる。いま私にできることは、文章にして今自分がいる状況を記録しておくことだけのように思われる。その記録が自分も含めた誰かしらになにかしら意味のあるものを与えることができる記録でありますように。

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