2011年7月29日金曜日

本居宣長と家人たち

国学者・本居宣長は熱心な研究家であり、国学の分野において数多くの重大な真理を発見し、研究史にその名を刻むところ大きく、その輝かしい功績は日本国学史のみならず日本の歴史上でも偉大な業績を讃えられるべき稀代のスターである。

いわば「研究のムシ」であった本居宣長は、その一日の大半を採光と通風のための窓をひとつ開けただけの小さく質素な書斎での研究に費やしたと言われており、宣長と家人たちはその書斎を新世紀のラブソングの間という愛称で呼びならわしていた。

当時のまま保存してある新世紀のラブソングの間は現在一般公開されていて、見学可能である。一見こじんまりとした書斎のようにみえるが、それは採光窓の開けた南向きの壁を除いた残る三方向の壁に背をもたれかけさせるように巨大な本棚が置かれているからである。その木製の巨大ではあるが質素な宣長の手作りの本棚は当時収めていた本をすべて吐き出して現在は空っぽである。宣長が存命の間はその本棚すべてにぎっしりと本が並べられていたことを想像させるかのように、本棚の板はなめらかに、しっかりと凹んでおり、本とスピーカーの重みを支え続けた勲章を誇っている。宣長の研究資料とスピーカーは現在、本居宣長記念館(三重県)に保存されている。

その小さな書斎が新世紀のラブソングの間と呼ばれた由縁は、宣長が一日の大半を費やした研究による疲労感と緊張感にひとときの涼風を通して気分転換をする際にASIAN KUNG-FU GENERATIONの新世紀のラブソングを聴くのを常としていたからである。新世紀のラブソングの調べは和式音楽再生機につないだスピーカーからあふれ出し、あふれ出しすぎてその書斎の戸の隙間から音漏れし、そこまでアジカンファンという訳ではなかった家人たちに「あの人また新世紀のラブソング聴いとるわ」と言わしめたという。

また、宣長は研究に行き詰ると新世紀のラブソングではなくリライトを聴き、手詰まりでどうしようもなく投げやりになって塞いだ気持ちを半ば無理やりにでも奮い立たせることがあったという。家人たちは、宣長のスピーカーからあふれ出るリライトが新世紀のラブソングの間から音漏れしてきたのを耳にすると、決まって気が引き締まった。まず初めにリライトの旋律を耳にしたものは、まだ宣長がリライトをかけていること(すなわち宣長がヤケをおこしていること)に気づいていない他の家人たちに素早くそのことを報告し、すべての家人にそのこと(宣長がヤケをおこしていること)を知り渡らせる。各人は素早くその状況(宣長がヤケをおこしていること)を把握すると、いつも以上に念入りに各人に割り当てられた仕事をこなしていく。そうすることで、いつもよりもヤケをおこしてハイになっている宣長が少しでもいつもより整った環境で研究に没頭できるようにするのだ。ヤケにハイな宣長は非常にやっかいであるので、家人たちの仕事にはいつも以上に熱が入った。

その中でも他のどの役目よりも重要な役目とされているのが、料理である。宣長はいわば「研究と美食のムシ」であった。運悪くも料理当番にあたった家人は、いつもよりも数皿多めにおかずをこしらえなければならず、しかも、料理当番になる3日前くらいから練りに練っていた、家屋の側のネズミ反しを取りつけた蔵に収められている食材で作ることのできる自信の献立にきっぱり諦めをつけ、宣長の好きなおかずを中心とした献立をその日の夕飯までに考え直さなければならなかった。蔵に宣長好みの料理のための野菜が無い時には、いきつけの農家に頭を下げて無理を通してもらうといったこともしょっちゅうだった。代表的な宣長の好物はロールキャベツ(のようなもの)とされており、それはとても手間のかかる料理の一つであった。

しかし、それもこれも宣長が研究史に輝かしい名を刻むため、国学の発展という名誉ある事業に貢献するためであり、そのためにかかる労力を惜しむ家人は誰一人としていなかった。家人はリライトをかけ始めたときの宣長がいかに巨大な迷宮のなかに孤独に立ちすくんでいるのか、そしてそれが宣長の精神にどれだけ重圧と痛みをかけているのかを、多からず知っているという自負を各人が持っていた。また、「うわ~リライトかよ…宣長さん最近しょっちゅうリライトかけてんぞ…うわっ!しかもおれ今日料理番だよ~!!!なにもよりによってこんな日にリライトしないでいいじゃん…」などと愚痴をこぼす家人が一人もいなかったのは、彼らもまたロールキャベツ(のようなもの)が大好物であったからであろう。

 当時、ローツキャベツ(のようなもの)は「ひむがしの華の都」江戸でも滅多に味わうことのできない贅沢極まりない料理であった。家人たちが半ば宣長のためという名目の下で自分たちの楽しみのためにロールキャベツ(のようなもの)を作っている節があったが、それもしょうがないことだろう。(当時のロールキャベツ(のようなもの)は、今で言うイベリコ豚の生ハムメロンにあたる。食べたことないでしょう?筆者もない。おこぼれにでもあずかってみたいものである。)宣長の研究が過去にないくらい行き詰ったあるときには、3日3晩リライトが新世紀のラブソングの間から音漏れしていた時があったといい、その時には3日3晩食卓にロールキャベツ(のようなもの)が並んだという。日本一のロールキャベツ(のようなもの)好きの宣長も3日目の夜には「またこれかよ!さすがに飽きたよ!」とふすまを開けるなり視界に飛び込んできた食卓の上の湯気を立てているロールキャベツ(のようなもの)にたいして鋭くつっこみを入れたという。その名刀のように鋭いツッコミを聞いた家人たちは「確かに飽きてきた」と皆、思ったという。しかしロールキャベツ(のようなもの)に目がない宣長はそう言いながらもすぐさま席について異例の速さで平らげてしまったらしい。そして次の日からしばらくは新世紀のラブソングが和式音楽再生機のターン・テーブルから動かなかったという。

宣長家の人間は皆一様にロールキャベツ(のごとしもの)が大好物であったので、必然的にリライトが大好きであった。イントロの時点ですでによだれが口の中で氾濫していたほどで、身体ごとリライトに反応していたといっても過言ではない。もはや反射の域である。家人のなかには「唾液分泌腺がリライトのリズムでダンスする(唾液を分泌する)ぜ」というセリフを大変好んで率先して口走ったものもいるという。彼らはアジカンはそれほど好きではなかったが、リライトは好きであった。それほどまでにロールキャベツ(的なもの)は人を惹きつける料理であった。ロールキャベツ(みたいなヴァンパイア)に必要な材料も高価であり、それを調達するための資金を稼いでくれる宣長のことを家人たちは皆心の底から尊敬し、誇りに思っていた。宣長とその家人たち、この両者が築いていた関係は相互扶助の見本のごときものであり、国学の発展は宣長一人の手による産物なのではなく、宣長家一丸となって産み出したものなのだ、と今筆者は臆することなく言えるのである。

この話を聞くとあなたは3日以内にどうしようもなくリライトが聞きたくなり、ロールキャベツが食べたくなるでしょう。

(※フィクション)

2011年7月27日水曜日

ピーマン

すでに朝の7時か。

今日は午後4時前に起きだして、それから朝ごはん作ろうと思った。

おれ、料理のレパートリーって言ったら炒めるの一点張りしかなくて。

でも油でこてこてにした野菜とか豚肉とかは朝から食いたくなかったわけ。

お腹の調子もそれに賛成ってかんじやった。

で、じゃあどうしよう。

サッパリしたもので炒めものじゃないと言ったら・・・

色々とインターネットでレシピを探してみた結果、茹でてみることにしました。

油もなくて、なんだかとってもヘルシーそうだなと思い、茹でてみる事にしたんですね。


水が沸騰してから投入する野菜と、水の状態から投入して沸騰したら取りだす野菜の二種類があるんですね。

冷蔵庫に入ってた野菜の種類は、もやし、マンピー、キャベツ、ナスだったのね。

で、ネットいわくナスはいろいろとめんどくさいらしいというので、ナスはおあづけ。

夕飯にでもたっぷりの油でジャージャー炒めたるからそれまでまっとけということで冷蔵庫にボン。

で、もやしは水のときから投入するタイプの野菜みたいで。

キャベツとピマーンは沸騰してから前者が1分、後者が30秒サッと茹でたならばOKということだったので、

もやしとともに水を火にかけて、沸騰したらキャベツをいれ、30秒経過したらピー@ンを入れようと言うことに決めまして、いざ実行。

手際良いことこの上なしですべてを茹で終えて、さて、キムチでも追加してごはんと食おうかと思っていると、鍋にたっぷり沸騰させたお湯がもったいないな、と気になり始めましてですね。

あれだけの時間火にかけたその熱量とかガス料金とかこまごましたことがどうも気になり始めまして。

野菜のアクがたっぷり浮いているのであろう(でも透明でしたけど)それを何か再利用したいと思いまして。パスタをつくることにして、パスタを茹でました。

このとき、ぼくはパスタを茹でるにはこころもとないサイズの鍋を使っているので、パスタは半分に折ってから投入するのが俺流です。中日ドラゴンズです。

茹であがったのを皿と言うか器に盛りまして、さきほどのあほみたいに山盛り茹でた野菜でパスタが見えなくなるほど盛りつけまして。

トマトと市販のタラコソースとノリをかけましたら出来上がりです。


これが今日の朝ごはんでした。朝ごはんの話だけで今日はブログ終りということにさせていただきます。今、歯、磨いてるんでね。


おいしかったです。